どうでしょうか その2

●○分社経営のススメ

日本電気、村田製作所、アルプス電気は、各地方に生産の機能だけをもつ別会社を設立することによって、設備の拡張を続けています。

これらの生産子会社は、作った製品のすべてを親会社が買いあげてくれるわけだが、価格決定権は親会社にあります。

かなりきびしい価格が設定されることになりますが、生産子会社は、コストダウンの目標を設定、それをクリアすることによって、適正利益を確保しているのです。

このような分社経営は、大企業の一部を別会社に分割することによって、中堅企業らしいチャレンジ精神とバイタリティを企業グループの中にとり入れるのが狙いなのです。

分社経営を推進することによって、企業グループ全体を活性化させ、大企業病をよせつけない企業体質づくりに成功しているのです。

どうでしょうか その1

●○分社経営のススメ

大企業病を予防するための部門別独立採算制は、分社経営なのです。

たとえば、松下電器産業では、長年にわたって製品別事業部制をとっていますが、独立の会社としてやっていけるメドがつけぽ、別会社として分離独立させる方針をとっています。

ただし、すべての製品について分社方式を考えているのではなく、家電の部品と考えられる分野を別会社にしています。

たとえば、乾電池、電子部品は、かつては松下本体の中にあったが、生産部門を松下電子部品、松下電池工業として分社しています。

販売については、松下本体の中に残してある電池事業部、電子部品事業部が担当しているのです。

昔日の九州路をたどって

九州北辺、今の福岡県の博多湾に面した地域の風景は、現在でこそ埋め立てが進み、昔日の面影はありません。

しかし、その昔、壱岐や対馬の辺境警固に向かった防人たちも同じこの海を前に心を新たにしたことでしょう。

現在も壱岐や対馬に渡るにはこの博多湾から旅立ちますが、防人たちも同じ海路を通ってそれぞれの任地に向かったはずです。

ただ残念なのは、私たちが防人の昔の道をたどろうにも、彼らの任地がほとんどわかっていないのです。

幸いなことに、防人ではない詠み手が防人の時代を詠んだ歌として、数首が万葉集に残っています。

その歌を通して防人たちが実際に活躍した九州の地を訪ねてみることにします。


沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば
也良の崎守 早く告げこそ

この歌は、万葉集巻16に収集されている筑前国志賀の白水郎の歌10首の1つです。

「也良の崎守よ、鴨という船が帰ってきたら早く知らせて欲しい」という内容です。

この鴨という船には、対馬に糧食を送る大宰府の命を受けた宗形部津麻呂の代わりに、荒雄が乗っていたはずです。

しかし、荒雄は遭難していまだ戻ってはきません。

その深い悲しみを歌に託したもので、作者は山上憶良ともいわれています。

この歌を取り上げたのは、もちろん「也良の崎守」という地名で、崎守は様々な説がありますが、防人を指しているというのが一般的な解釈です。

也良というのは地名で、現在博多湾に浮かぶ能古島の北端にある也良岬のことを指しています。

おそらく防人は、この也良岬で海上の警固をしていたのでしょう。

その防人に対し、作者は「どうか一刻も早く荒雄の帰還を知らせて欲しい」と願ったのに違いありません。

防人の苦難

苦難の長旅の末に大宰府までたどりついた防人たちは、まず大宰府の防人司の配下に入れられました。

そして、さらに実際の警固にあたる九州北辺の任地に、それぞれ送られたのです。

主な任地は対馬、壱岐、唐津、糸島半島(福岡県)、博多の各地。

しかし、それらの任地は白村江の戦い以降、外敵に対する警固の最前線基地となっていました。

しかし、基地とはいっても、現在の軍事施設とは比べようもない粗末なもの。

防人たちにはそこで新たな苦難の生活が待ち受けていたのです。

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防人歌にみる防人たちの心情 2

妻ばかりでなく、父母を思いやる歌も防人歌には多いです。


大君の 命かしこみ 磯に触り

海原渡る 父母を置きて


作者は、助丁丈部造人麻呂(はせつかべのみやつこひとまろ)という防人です。

天皇の命を承って、磯にぶつかりそうになりながらも波の荒い海を渡り、防人として九州に向かう自分の姿を詠んでいます。

しかし、この歌でわたしたちの心をひくのは、「父母を置きて」というところでしょう。

東国の民である防人たちが朝廷に対して恭順の意を表すには、つらいことであっても防入の任務に就くことが一番でした。

だからこそ、この作者は「大君の命かしこみ」とまず詠んだのでしょうが、それだけに父母を故郷に残してきた悲哀が、歌中にかえって対照的な強さをもって響いています。

万葉集の魅力のひとつは、技巧よりも、こうした個入の素朴な感情を重視した歌が数多く集められているところにもあります。

防人歌にみる防人たちの心情

交通手段の発達していない当時のことですから、徒歩、船、そしてまた徒歩と進む防人派遣の道のりは厳しく、数ヶ月にもわたる長い旅となりました。

難波津からは朝廷の兵として食糧が配給されましたが、そこに至るまでの間の食糧は自己負担・・・。

ただでさえ貧しい農民にとってはつらい旅だったと想像されます。

さらに故郷を離れた旅路のことだから、精神状態が不安定になったり、病いで倒れる防人も多かったことでしょう。

そんなときに思い出されるのが故郷に残した家族のこと。

それは今も昔も変わりません。


我が妻も 画にかきとらむ 暇もか

旅行く吾は 見つつ偲む


この歌も万葉集巻20から、作者は物部古麻呂という防人です。

「遠く九州北辺の警固に向かう自分としては、旅先で自分の妻を描いた絵を見たいので、その絵を描く時間が欲しい」という気持ちを表現しながら、愛する妻を残してゆくことのつらさを詠み込んだものです。

百隈の道

軍防令にあるように防人として集められた兵士は、1ヶ月余りの訓練を地元で受けたのち、東国各地(伊豆、甲斐、相模、安房、上総、下総、常陸、武蔵、駿河、遠江、信濃、下野国)を出発します。

東海道あるいは東山道を、通過するそれぞれの国の国司があたった部領使に率いられて、西の難波津まで向かいました。

難波津からは朝廷の兵部省の役人に率いられて船で瀬戸内海を渡り、博多津まで輸送され、「遠の朝廷」といわれた当時の西海道の中心地、大宰府に到着しました。

難波津から大宰府へ向かう間の防人の心情を詠んだ歌として、次のようなものがあります。


百隈の 道は来にしを また更に

八十島過ぎて 別れか行かむ


万葉集巻20にある、助丁刑部直三野という防人が詠んだ歌です。

助丁とは各国の防入の軍団(平均200~300人)の中でも上級の兵士で、最高責任者国造丁の補佐役です。

「百隈の道」とは難波津までにたどってきた陸路のこと。

難波津までやっとのことで到着した作者は、「更に八十島過ぎて」と続け、再び船に乗ってたくさんの島の間を行き、さらに遠い筑紫の国に向かう自分の行く末を率直に予感しています。

防人派遣の道

闇の夜の 行く先知らず 行く吾を
いつ来まさむと 問ひし児らはも

万葉集巻20に収められている防人歌で、「闇の夜」とあるように、東国から九州へ向かう防人たちの旅は、昼夜の別なく続けられました。

「行く先知らず」と詠まれたように、派遣先への不安が素直に表現されているのも印象的です。

この歌のようにその派遣先までの旅の不安に満ちた気持ちは、防人たちに共通したものだったようです。

東国の人々にとって、筑紫(現在の福岡・佐賀・長崎県)の国は見たこともない遠い異郷の地であり、目的が軍務であることも、大きな不安材料だったに違いない。そして何よりも、西国への道のりは長くて険しかったのです。

玄界灘沿岸の警固を目的とする防人制度は、当時の基本法である「令義解」に「軍防令」として詳細が決められ、その赴任までの行程についても規程されていました。

それには、こう記されています。


辺境(国境)を守るものを防人と名づける。

防人が難波津(大阪)に至る間は、皆それぞれの国司が親身になって掌握し、世話をする。

難波の津を出発する日から、専使が掌握して大宰府に送りつけること。

また兵役の年齢は20歳から60歳までの正丁があたることになっていました。

正丁というのは、庸、調の課税を受ける男子で、ほとんどは農民です。

防人の歌が生まれた理由

このように防人とは、辺境(国境)防備の役を担った兵士たちのことなのです。

その多くは上総国(千葉県)や常陸国(茨城県)といった東国の民がその任に命じられていた。

なぜ防人に東国の民を当てたかについては諸説あります。

白村江の戦いで九州出身の兵士たちの疲弊が激しく、また防人の徴集が緊急を要していたこと、さらに東国の民が剛健で兵役に適していたからだといわれています。

しかし、東国からはるか300里(1200キロ)かなたの九州北辺まで、強制的に国境警固のために派遣された防人たちの悲しみやつらさは、当時の交通・生活事情を考えれば並み大抵ではありません。

そこに万葉集の哀切を極めた防人歌が生まれるきっかけがあったのです。

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福岡の水城跡

しかし日本と百済の連合軍は、大国唐の加勢を受けた新羅軍の前に敗れます。

日本は半島での政治力拡大を断念したばかりでなく、玄界灘沿岸(博多、唐津周辺)の防備の必要をせまられる結果となりました。

白村江の戦いでは多くの犠牲者が出ましたが、そのほとんどは九州出身の兵士たちで、中には新羅軍の捕虜となった者もいました。

大伴部博麻もその1人。

博麻は後に愛国者として迎えられ、現在福岡県八女市にその働きを讃えた碑が残っています。

防人そのものは、大化の改新の詔にある畿内周辺の警固の役名として、すでにその名が登場していますが、自村江敗戦の翌664年、朝廷は対馬、壱岐、筑紫の各国に防人、蜂火を配置することで、確固とした役割を防人に課しました。

また、このとき筑紫に大堤を築いて貯水させ、非常時に備えています。

これは「みづき」と呼ばれ、現在も福岡県太宰府市と大野城市にまたがる「水城跡」として特別史跡の堤防が残り、防人の往時を偲ばせています。

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